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2011/10/01掲載
名物監督
高校野球の世界には、いわゆる名物監督と呼ばれる方々がいる。横浜高校の渡辺監督や帝京高校の前田監督、明徳義塾の馬淵監督らで、強豪校で長年指導し甲子園で何度も活躍を見せている。そんな一人、常総学院の木内監督が80歳となるこの夏をもって引退した。長年、取手二高の監督を務め、1984年には桑田・清原コンビのいるPL学園を決勝戦で破り、茨城県勢初の甲子園優勝を果たした。そんな木内監督の代名詞の一つに「のびのび野球」がある。選手が委縮しないよう絶えずベンチでは笑顔を絶やさなかった。だが、笑顔といえば、「尾藤スマイル」で知られた箕島高校野球部の元監督、尾藤公(びとう・ただし)氏を忘れることはできない。

尾藤氏は、1995年に勇退するまで春夏連覇を含む4度の甲子園優勝を果たし、甲子園通算35勝を誇る。勝利数は歴代9位の記録だが、尾藤氏が印象に残るのはその人柄にある。レギュラーと補欠、敵味方の隔てなく球児をいとおしみ、よく選手に語りかけていたそうだ。100人近い野球部員一人一人に心を配り、途中で退部する選手はほとんどいなかったという。箕島といえば思い出されるのが、1979年夏の大会3回戦の星稜高校との延長18回の死闘である。延長で2度も星稜にリードされながら、その裏いずれも本塁打で追いつき、ついに18回裏にサヨナラ勝ちを収め、そのままこの年は優勝を成し遂げた。

この歴史的な戦いには、尾藤氏の人柄を象徴する後日談がある。2010年9月に延長18回を戦った当時のメンバーが甲子園でOB戦を催した。この時すでに癌を患い車椅子で球場に現れた尾藤氏が「一番会いたかった」のは、当時の対戦相手星稜の1塁手だった加藤氏だという。星稜1点リードの16回裏、加藤氏は2死ランナー無しから打者の打ち上げたファールフライを落球してしまった。命拾いした打者は、その直後に起死回生の本塁打を放ち、最後は箕島が勝利した。

「元気にやっているか」と真っ先に加藤氏に声を掛けた尾藤氏。多くの人に惜しまれながら、半年後の2011年3月に68歳で鬼籍に入った。しかし、野球を通じた人間育成の精神は、様々な形で今も受け継がれていると信じている。心よりご冥福をお祈りします。(七対子)

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