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2019/09/01掲載
日航ジャンボ機墜落事故
1985年8月12日のJAL123便の墜落事故から34年が経った。各メディアでは令和最初の御巣鷹山慰霊登山の様子や事故直前のコックピットの会話が記録されたボイスレコーダーの音声が何度も報じられていた。しかし、このボイスレコーダーの音声は事故後しばらくの間は公開されていなかった。公になったのは、運輸省(当時)の事故調査報告書の公表から13年、事故からは15年が経ってからだった。

2015年8月12日付けの日テレニュース24の取材において、事故機の機長の長女・高濱洋子さんが回想している。事故当時は自分自身も遺族であるにも関わらず、“墜落したジャンボ機の機長の家族”という立場から、世間からたくさんの心ない言葉や嫌がらせの電話を受けたという。事故現場近くの遺体安置所には、日中は多くの遺族がいるため遠慮して、夜を待ってから父親を探し歩いたとも語っている。

そんな苦悩の日々が、事故から15年後にボイスレコーダーが公開されたことを機に変化したという。ボイスレコーダーには機長と副操縦士との、最後の一瞬まで機体のコントロールを取り戻そうと懸命に闘った音声が記録されていた。それを聞き、洋子さん自身も「最後まで父はがんばったんだなと、誇りに思わなければいけない」と考えるようになったそうだ。そして、ボイスレコーダーの音声は、他の遺族の心にも響いたようで、その後、父親を慕うようにJALの客室乗務員となった洋子さんを知る遺族の人から「本当に最後まで頑張ってくれたんだね」「ありがとう」との言葉をかけられるようになったという。

父親と同じ“空の仕事”に就いた洋子さんにとっての8月12日は「父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、新たに、また安全を守っていかなければという確認をする」一日だそうだ。これは、彼女だけでなくJAL関係者全員にとってもそういう一日となっていると思いたい。しかし、先日8月14日付けの読売新聞朝刊では、御巣鷹山の麓で行われた今年の追悼慰霊式を報じる記事のすぐ隣に、乗務前のJALの副操縦士から飲酒検査でアルコールが検出され、パイロットが交代したという記事が並んでいたのは、実に残念なことだった。昭和の8月12日の教訓は、平成のJALの再生によって風化し、令和に至っては忘れ去られてしまった、とは思いたくない。(歩)

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